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地域社会日本経済新聞編集委員 宮内禎一「戦争取材の現場から」
ロシアがウクライナを侵略して来年2月で3年になる。以前より報道が減って厳しい戦闘が続いていることが忘れられがちだが、住民の疲弊はいかばかりか。北朝鮮の派兵が伝えられるなど戦争終結の道筋は見えない。
パレスチナ自治区ガザでの戦闘も10月で1年を経過した。イスラエルがレバノン南部に侵攻し、イランとの間でも緊張が続く。
前回スマトラ島沖地震とインド洋大津波の取材に触れたのに続き、今回は戦争取材の経験を紹介したい。
1990年代後半、カンボジアではまだ反政府ゲリラ組織のポル・ポト派が活動し、政府もラナリット第1首相派とフン・セン第2首相派が軍事衝突するなど、ほとんど内戦状態だった。
97年9月、タイ東部スリン県のカンボジア国境で第1首相派と第2首相派の戦闘を取材した。第1首相派がタイ国境まで追い詰められ、下の谷から第2首相派が迫撃砲を撃ってくる。「トン」と発射音がしてしばらくすると「ヒュルルルルル」と落下し着弾する。
国境から100メートル手前のタイ側にいても、たまに砲弾の破片が「キューン」と鋭い音で飛んでくる。報道陣はみなわれ先にと塹壕に飛び込んだ。破片でタイ人記者が傷を負うなど、十分に怖い現場だった。難民キャンプの子どもたちは笑顔を見せたが、かえって痛々しい感じがした。
98年4月にはポル・ポト派最後の拠点だったカンボジア北西部のアンロンベンを政府軍が制圧した。アンコールワットがあるシエムレアプから政府軍のヘリコプターで同地に向かった。全開のヘリのドアには機関銃が据え付けられ、映画「地獄の黙示録」のようにジャングル上空を飛んだ。 着陸地点ではまだ砲声が聞こえ、学校の校庭に擱座した戦車が放置されていた。首に赤い布を巻いた15歳前後のポル・ポト派の少年兵がトラックで運ばれていった。
首都プノンペンでも第1首相派と第2首相派が衝突し、病院も砲撃を受けて大きな穴が開いた。閉鎖された繊維工場では解雇通知の張り紙を茫然と眺める人々がいた。
同国では70年代後半、ポル・ポト率いるクメール・ルージュが100万人とも200万人とも言われる国民を虐殺し、国内あちこちに処刑場の跡地「キリング・フィールド」が残る。「環境によっては人間はこんなことまでする」と、心に刻んだ。
両派の停戦が実現した後、98年7月に同国では総選挙が実施された。投票所でにっこり笑って一票を投じた女性の顔が忘れられない。平和であること、投票できることはそれだけ重い。
「なぜわざわざ危険な現場へ行くのか」という批判もある。それでも現地へ行くことで戦争の悲惨さを実感し、よりリアルに報道できる。行かないと見えないものがある。
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