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寄付立教大学社会デザイン研究所 星野 哲終活万華鏡 -6 -
前回、遺言の話から、遺贈寄付という選択肢があると記しました。遺贈寄付とは、家族や親族以外のNPO法人や公益法人、学校、美術館など第三者に遺産の一部、または全部を贈ることをいいます。遺言に「△△団体に××を遺贈する」などと記す遺贈がよく知られた方法ですが、これ以外にも信託を使う方法などもあります。いろいろな人にお世話になったことを思い起こしての恩返しや恩送りであり、人生最後の社会貢献ともいわれます。
「お金持ちのすることでしょ」と誤解されることが多いので、最初にお断りしておきます。遺贈寄付はだれでも、いくらからでもできるということです。また、生きている間は当然ながら自分のためにお金を自由に使えますし、そうあるべきです。「遺贈寄付するから生活を切り詰めなければ」などと不自由になる必要はまったくありません。あくまで、死後に遺ったものの中から贈るのですから。
具体的な方法や事例などはこの記事が掲載されている、遺贈寄付サポートセンターHPに詳しく説明がありますので、ぜひご覧ください。ここでは遺贈寄付の「よい」と思う点を記しておきます。
まずは自分自身にとってのよいことです。遺贈を考えるとき、多くの人は自分自身の人生を振り返ります。どんな人生を歩み、どんな人たちと出会い、何を大切にしてきたのか――。その結果としてどこに何を遺贈するかを決めるわけですが、それは自身の人生を肯定することにつながるはずです。他者のことを思える自分の人生は悪くなかったのではないか、と。過去と現在の肯定です。
自分がいなくなったあともこの世界がよいものであってほしい、誰かの役に立ちたいという思いは「未来」への希望、未来の肯定です。思いを遺贈に託すことで、生きた証をこの世に刻印する。それは名を残すということに限らず、思いによって誰かの人生が少しでも良い方に、明るい方に進むお手伝いをするという無形の刻印の場合の方が多いでしょう。こうした未来への「関与」が、死に向き合う一助になるかもしれません。
フランスの哲学者ボーヴォワールは著書『老い』の中で以下のような一文を残しているそうです(NHK 100分de名著 2021年7月「ボーヴォワール 老い」上野千鶴子、102-103P)。
世のすべての人々と同じように私は無限を想定することができないが、しかし有限性を受諾しない。私は、その中に自分の人生が刻み込まれているこの人類の冒険が無限に続くことを必要とする。私は若い人びとが好きだ。私は彼らのなかにわれわれの種[人類]が継続すること、そして人類がよりよい時代をもつことを望む。この希望がなければ、私がそれに向かって進んでいる老いは、私にはまったく耐えがたいものと思われるだろう。
いま、天国や極楽、ご先祖様になるといった、死後も続く世界を強く信じる人はどれほどいるでしょう。ボーヴォワールも信じていませんでした。そんな彼女が願ったのが「人類の冒険が無限に続く」という未来でした。それを「希望」として老いや死に向きあうというのです。遺贈寄付によって、未来につながっていく可能性を信じることができれば、それは生きる上での大切な支えになるかもしれません。
すでに感じていらっしゃると思いますが、遺贈寄付は自分自身にとってだけでなく、社会にとってもよいことがあります。この点は次回に。
日本財団が提唱する、遺贈という名の選択
ご自身のこれまでの人生を振り返り、そこで気づく大切なあなたの「思い」を遺言書で未来に遺すことができます。遺言書で、あなたの「思い」のつまった財産を、未来の社会貢献活動のために寄付として遺すことができるのです。それが遺贈寄付です。日本財団遺贈寄付サポートセンターでは、「遺贈寄付」に関するご相談をお受けしています。