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立教大学社会デザイン研究所 星野 哲終活万華鏡 -12 -

終活万華鏡 -12 -

 終活が前提するのは自身の死です。では、死とは何でしょう?
 この問いは実は無意味です。「××とは何か?」という問いへの回答は、「悪人は悪い人だ」といった同語反復(トートロジー)にならないとすれば、必ず何か別のものを用いての例えにならざるをえません。「悪人は犯罪者だ」など一見、説明しているようにもみえますが、ちょっと考えれば元の言葉とは別の言葉になっていることは明白です。いくら言葉を尽くして説明しても、元の言葉を丸ごと寸分漏らさず表現することは言語的に不可能です。

 これに加えて、死は常に他者のものであり、この世に誰一人として経験した人がいないものです。「死が存在するときに私は存在していないし、私が存在するときには死は存在していない。これは完全に論理です。つまり、死が存在していないということは、死は無いということ。一人称の死は存在しない、無いということが明らかにわかります」(池田晶子『死とは何か さて死んだのは誰なのか』2009年、毎日新聞出版 231P)というように、「わたしの死」は論理的に考えて体験できません。

 つまり、「死とは何か」と問うても、そもそも誰にも例えのしようがないし、例えたところで死とは別のものでしかないので、答えがあるはずがありません。仏教でも、お釈迦様は死後の世界などについて問われても回答しませんでした。「無記」という態度です。

 いくら考えたり悩んだりしても結局のところ、死がどんなものであるのかはわかりません。ただ、死ぬまでは生きていることだけが確かなことです。だったら死の不安におびえるばかりではなく、有限の人生を生きることにこそ力を尽くしたい。だからこそ、終活を意識したらどう生きていくのかをあらためて考える契機にしたい。それが、連載1回目で「終活を意識したら集活を」と主張した真意です。

 人は一人では生きていけない存在ですから、どう生きるかとは詰まるところ他者との関係、縁を考えることになります。人のつながりである社会についても考えることになります。また、「命」のつながりで考えれば自分自身がこの世から消えた後に生きていく次の世代の人たちのことも意識されます。「自分はこうありたい。こうして生きていきたい」と思ったとき、他者にはどうあってほしいか、他者とどのように過ごしたいでしょうか? 社会はどうあってほしいでしょうか?

 死生観とは、こうしたことを考えることなのだと私は思っています。

 この連載が始まって今回で1年が経ち、最終回となります。ご愛読、ありがとうございました。

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