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立教大学社会デザイン研究所 星野 哲終活万華鏡 -7 -

終活万華鏡 -7 -

 前回、個人にとって遺贈寄付の「よい」ことを考えました。では、社会にとって「よい」こととはなんでしょう? ざっくり分けて、2つあると思っています。
 一つ目は、社会を成り立たせるうえで最も大切な基礎である、他者への信頼を生み出すことです。ちょっと抽象的ですが、以下のようなことです。
 たとえば経済的理由で進学できない子どもを支援する活動に寄付することで、誰かが進学の夢をかなえられるかもしれません。夢をかなえることができたその誰かは、きっと喜びます。その家族や支援活動をしている人たち、友人ら周囲の人たちも喜ぶでしょう。喜びを、幸せを感じると言い換えてもいいと思います。
 喜びを与えてくれたのは見知らぬ他者、しかもその他者はすでにこの世にいないのが遺贈寄付の特色です。感謝したいと思ったとき、現実的な形で謝意を表したいと思っても、当の相手は存在していません。地球環境保護活動や文化活動支援などのように、直接的に誰が寄付によって何かを受けとるのかや、寄付者の存在がみえにくいケースも同様です。
 フランスの社会学者、マルセル・モースは著書「贈与論」で、贈与には返礼義務が伴うと分析、主張しています。丸めて言えば、恩を受けたら、その恩を返さずにはいられないのが人だということです。遺贈寄付では当の相手がいないのですから、その恩を返す相手は別の誰かになりえます、というかそうならざるを得ません。直接的な「恩返し」ではなく、別の誰かに恩を返す「恩送り」です。
 ここに幸せの連鎖の可能性が生じます。もちろん、必ず恩送りが起きるとは限りません。やむなき事情があって止まってしまう可能性だってあるでしょう。でも、寄付者は無意識かもしれませんが、その連鎖を信じて寄付していると私は考えます。そもそも遺贈寄付とは寄付者本人にはその結果をみることができない、端から見知らぬ他者を全面的に信じ、委ねる行為なのですから。他者を信じ、幸せの連鎖を信じるからこその行為です。この、他者を全面的に信じるということにこそ、大きな社会的意義があると思うのです。
 人は一人では生きられません。見知らぬ人を含む多くの他者とともに、一人では乗り切れない事柄も乗り越えて行く。社会的弱者を含めすべての人が生きられる、生きやすい状態を目指すのが、社会というものの存在意義です。各自が自分自身のことだけを考えて行動するのではなく、お互いさまと考えてある程度の制約を受け入れ、結果的に全体、そして個人の利や幸福が増えていくことを前提することで成立しています。
 その社会が成立する条件こそが、他者を信じることです。他者も自分と同じように幸せを求めて生き、お互いにいざというときには助け合える。「私」は一人ではなく「われわれ」の一部なのだと思えることによって、社会ははじめて成り立つのです。
 もしも他者への信が失われて社会が成り立たなくなれば、「万人の万人に対する戦い」(トマス・ホッブス)へと人々は駆り立てられてしまうでしょう。一世を風靡した漫画「北斗の拳」で描かれる終末的世界は、まさに他者への信頼が失われ、暴力だけが支配する世界でした。「万人の万人に対する戦い」が極まった姿です。
 「自己責任」を強調して個々人を分断し、本来は社会で向き合うべき事態を含め、むき出しの個人があらゆることに自力で向き合わざるを得ない状況とは、他者への信が失われつつある状態、社会の崩壊へと歩みを進めているように感じられてなりません。たとえばコロナ禍で経済的に生活が難しい人たちが増えています。そのことを見ないふりをしてしまえば、「いつかは自分も見捨てられる。それなら他者のことなど知ったことではない」と、他者を信じることなどできなくなってしまうでしょう。そのとき社会は、社会としての根っこを失い、機能を大きく損なってしまうはずです。
 少し大仰な話をしてしまいましたが、他者を全面的に信じる行為である遺贈寄付は、実は社会を支えるとても大切な役割を果たす手段の一つなのだと確信しています。バラバラな「私」を「われわれ」という共感で結び付ける上で、他者を信じ、恩送りを生み出す遺贈寄付の意義は非常に大きいと考えます。次回は、この続きを。

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